カーソルを上に動かすと、車椅子が前に進む。下なら後退、左右で舵を切る。
2026年7月、ニューラリンク(Neuralink)が公開した2分足らずの動画には、被験者が思考だけで電動車椅子を走らせる様子が収められていた。画面の中のポインタを動かす段階から、体そのものを運ぶ段階へ。この3か月で、脳インプラントの用途は明確に一段上がった。
2026年5月19日の記事では、BCI業界が多極化しつつある構図を扱った。今回はその続きとして、Neuralink 自身が何を積み上げたのかを見ていく。
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目次
脳の運動野に埋め込んだN1インプラントが1,024個の電極で神経活動を読み取り、機械学習が「動かそうとした意図」を画面上の仮想カーソルの動きへ変換する。そのカーソルの位置が、そのまま電動車椅子への命令になる。カーソルを上に動かせば前進、下で後退、左右で方向転換。
Interesting Engineering が2026年7月24日に報じたところによると、仕組みは意外なほど素直だ。新しいセンサーも新しい操作体系も出てこない。
Neuralink は新しい入力装置を発明したわけではない。すでに動いているカーソル制御を、別の出力先につないだだけだ。Benzinga はこの点を「新しいのはインプラントではなく、課題のほうだ」と表現している。被験者はデジタル上のUIを操作するのではなく、自分の周囲を移動している。
映像では、被験者が前進と後退、方向転換に加えて座席の位置調整までこなし、屋内と屋外の通路を進んでいく。車椅子に取り付けたカメラのライブ映像が頼りだ。安全機構も入っている。Neuralink によれば、使用者の集中が切れると自動的に中央へ戻る機能が働き、車椅子は減速して停止する。
イーロン・マスク氏は X にこう書いた。
Neuralink helping those who have lost their mind to body connection.
(心と体のつながりを失った人たちを、Neuralink が助けている)
ただし同社は、これが商用製品ではなく研究段階の実証だと明言している。ここは押さえておきたい。
| 思考が車椅子を動かすまで | |||||||
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| 安全機構: 使用者の集中が切れると自動的に中央へ戻る機能が働き、車椅子は減速して停止する。 | |||||||
| 出典: Interesting Engineering(2026-07-24)および Benzinga(2026年7月)の報道をもとに作成 |
車椅子のデモに先立ち、Neuralink は2026年7月にもう1本の動画を公開している。タイトルは「Our First Transdural Procedure」。再生回数は40万回を超え、直近3本のなかで突出して伸びた。
何が起きたのかは、CBC が2026年7月2日に報じた記事で具体的に分かる。
バンクーバー警察の巡査部長 Lee Marten さん(48歳)は、ALS の診断を受けたのち、2026年5月20日にトロントの Toronto Western Hospital で N1 の埋め込み手術を受けた。カナダの治験 CAN-PRIME の一環で、世界では26人目のインプラント被験者にあたる。
手術当日、直前になって術式の変更が伝えられた。従来のように硬膜(脳を覆う保護膜)を剥がすのではなく、ロボットが硬膜を貫通して電極を挿す。世界で初めての試みだった。
夫が世界で初めてその新しい術式を受けると聞かされたのは、手術室に入る直前でした。そこからちょっと怖くなって。
— Lisa Marten さん(Marten さんの妻、CBC の取材に対して)
執刀チームを率いた UHN の Andres Lozano 医師は、これを技術上の大きな前進だと評価し、手術をより簡便で安全にしうると述べている。電極を挿入するのは身長2メートルのロボットで、サンフランシスコからトロントへ空輸された。
手術は6時間に及んだ。Marten さんは頭皮に27個のステープルを打たれた状態で ICU で目を覚まし、その約1時間後にはエンジニアとデバイスの調整を始めている。これほど早く操作を試した被験者は初めてだと言われた、と本人は語る。
サイエンスフィクションみたいに聞こえるのは分かっています。でも、現に私はここにいて、実際に動く。
— Lee Marten さん(CBC の取材に対して)
退院後、彼は脚にタトゥーを入れた。人間の脳の絵と Neuralink のシンボル、そして被験者番号の26。
硬膜を開けない術式は、患者の負担が軽くなるという以上の意味を持つ。開頭の工程が減れば手術時間は縮み、対応できる施設も増える。Neuralink が繰り返し語ってきた規模拡大には、この一手が要る。
| 術式の転換 — 開頭から低侵襲へ | |||
Andres Lozano医師(執刀チームを率いたUHN): 「手術をより簡便で安全にしうる」と評価。開頭の工程が減れば手術時間は縮み、対応できる施設も増える。 | |||
| 出典: CBC News(2026-07-02)の報道、および本記事の分析 |
英国では UCLH が2026年1月29日、GB-PRIME に7名が参加していると公表した。全員が同院の National Hospital for Neurology and Neurosurgery で、2025年10月から12月にかけて手術を受けている。試験は英国の規制当局 MHRA と倫理委員会の承認を得たうえで実施されているものだ。
参加者のひとり、ダイビング事故で四肢の自由を失った医学生 Sebastian Gomez さんは、Sky News にこう語っている。
いま私は、手を右へ、左へ動かすことを考えるだけでいい。技術がそれを理解して、実行してくれます。
— Sebastian Gomez さん(UCLH の発表より)
Interesting Engineering によれば、2026年6月時点で世界26名が N1 の埋め込みを受けた。2026年1月時点の21名から、半年弱で5名増えた計算になる。爆発的な伸びとは言えない。ただ、米国とカナダと英国と中東で並行して症例が積み上がる状態は、1年前には存在しなかった。
ここで線を引いておきたい。
N1 はいまだ承認された医療機器ではない。 どの国でも治験機器の扱いで、販売もされていない。車椅子のデモにしても、Neuralink 自身が研究段階の実証だと断っている。
安全性については、Neuralink が2026年1月の21名到達を発表した際、デバイスに起因する重篤な有害事象は報告されていないとしている。一方で2024年に最初の埋め込みを受けた被験者は、術後数週間で電極が脳から抜けかけたことを公表した。カナダの治験参加者は1年以上のモニタリング対象で、医師が警戒しているのは発作、感染、脳卒中だ。
Marten さんを受け入れた病院は、マスク氏が所有する企業と組むこと自体への批判も受けた。技術がどこまで進んだかと、それを誰がどう運用するかは、別の問題として残り続ける。
次の一手も見えている。Benzinga によれば、Neuralink は次世代インプラントで電極数をおよそ1,000から3,000へ増やす計画だ。マスク氏は2026年5月、視覚復元チップ Blindsight の最初の埋め込みを年内に見込んでいると述べた。当初は限定的な視覚から始まるという(Blindsight の経緯は視覚チップの過去記事に詳しい)。
ひとつ。BCI の評価軸が「何ビット出せるか」から「何ができるようになったか」へ移りつつある。カーソル速度の記録更新より、車椅子が廊下を曲がる映像のほうが伝わる。医療機器の事業評価でも同じ転換が起きるはずだ。
ふたつ。手術の簡素化が競争条件になった。硬膜を開けずに済むなら、展開に必要なのは希少な脳外科医というよりロボットと標準化された手順になる。普及速度を決めるのは、チップの性能より術式かもしれない。
みっつ。日本にこの治験はまだ来ていない。英国、カナダ、UAE と並ぶ選択肢に日本が入らないまま時間が過ぎれば、症例データも運用ノウハウも国外に積み上がる。規制ルートの設計を先送りできる期間は、そう長くない。
画面の中の点が動いた日から2年半あまり。2026年の夏、それは廊下を曲がった。